ハムをはむはむ食む
学生の時、何も考えなくてよいバイト、否、ほかのことを考えられるバイトということで、流れ作業のバイトをやったことがあるが、やはり苦痛だった。学生時代の足りない脳みそでそんなに豊富に考え事があるわけでもなかったので、結局ベルトコンベアとかの音に紛れて歌を歌いながら手を動かすとか、そういう無為な時間を過ごすことになるのだが、一日8,000円だか10,000円だか、学生にとってはそれなりの金を手にすることで、凹んだテンションをなんとか±0まで持っていくのに精一杯であったのを記憶している。
それはさておき、ゴールの話に戻ると、人生こそ、マラソンのようであると、例える人がいる。本当だろうか。
一日という小さなゴールを積み重ねるのが人生だ
(なんとなく思いついただけ、偉そうなことを言っているようで何も言っていない)
マラソンは、そうはいっても42.195Kmという距離が決まっていて、ルートが決まっていて、そして沿道から声援をもらことはあろうが、基本的には孤独な闘いである。
翻って「人生」はどうだろうか。まずゴールがない。どこに向かって走ろうが、歩もうが立ち止まろうが寝っ転がろうが、自由である。80年と決まっているわけでもない。明日の朝いつも通りに目が覚めるという保証はどこにもない。街を歩いていても事故に事件に天災に巻き込まれて突然レースが終わってしまうかもしれない。そのときは振り返ることすら許されない。人生にはルートなどないし、人生は孤独ではない。
つまり、マラソン好きがマラソンを正当化するために「そこに人生が凝縮されている」などと吹聴したのではないか、と考えている。
もう一点、マラソンをしているとランナーズハイになるなどいうが、これはまた後日書くとしよう。今日は一週間疲れた後につき眠たい。
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