ロボットと鯉のぼり

2つ前のポストで「節句」を片仮名で書いた。
「セック」というのは、なかなか見ない字面である。なので、あるいは「セックス」と勘違いして、何かを期待して中を読んでくれる人がいるかもしれない。ことほど左様に、人というのは自分の見たいように事実を解釈するものである。

しかし、何もそれが悪いとか、人がロボットより劣っているとかいうことではなく、この勘違いというのは実に人間らしく、クリエイティブなものだというのが、今日触れたいことである。

例えばこの写真。端午のセックを象徴するもう一つのものがこの鯉のぼりである。
これが鯉のぼりというもので、子どもの成長を願って云々ということをロボットに覚えさせることは簡単にできるだろう。鯉のぼりにもいろんな種類があるんだろうが、共通するパターンをロボットなりに見つけ出すだろう。

しかし、そもそもこの鯉のぼりの由来は、となると、ロボットには難しいだろう。
鯉のぼりは、もともと将軍家や武家に男の子が生まれたら端午の節句に「のぼり」を立てて祝うようになり、これが徐々に庶民に広がって、さらに子どもの成長→立身出世→鯉の滝登りという連想から庶民がのぼりに鯉を描いたのが「鯉のぼり」の始まりらしい(きになるきにするより)。

要するに、駄洒落である。
だいたい、のぼりに鯉を描くまではいいとして、それを本物の鯉っぽく筒状にして風になびくようにした時点で鯉の滝登りという意味からも外れてるわけである。今の鯉のぼりの形状では、むしろ風がない時の方が鯉の滝登り感があるという、なんとも不思議なことになっている。

かくして、こんなものはロボットには生み出せないだろう、という話。連想だけなら得意だろうけど、連想の連想でさらにそれが国民に受け入れられるぐらいの納得感を、ゆっくりと変化させながら生み出していくこもは難しいだろう。今どき小説だって書くらしいが。

いや、それさえ戦略を持ってできてしまうのだとしたら、やはり残るは出発点、人の欲求や欲望、そして愛ということになろう。我が子の成長を願う、そんな当たり前なことがなければ鯉のぼりも生まれていないだろうから。

ハイテンションでいこう

私たちの毎日は他人とのコミュニケーションで成り立っている。他人は自分と同じことはないのだから、嫌が応にもテンション(緊張)が高まる。そう、世の中は好むと好まざるとにかかわらずハイテンションであふれているのだ。

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